306ー10万円

東京時代のアルバイトの種類は数え上げるとキリがないのですが、あるバイト先の事務員さんにSさんというかなり高齢な女性の事務員さんは私にとても良くしてくれて私もSさんを母親のように慕っていました。

ある日、事務所でSさんに『宝くじが当たっているかどうか新聞で調べてほしい』と言われます。

Sさんは視力が衰えていたので新聞の小さな文字が見え辛いのだろうと思い、50枚程の宝くじを新聞の端っこに小さく発表された当たり番号と一枚一枚照らし合わせて確認していると、何とその内の一枚が『10万円』に当選しているではありませんか。


普段ならそんなことは微塵も考えもしないのですが、魔が差すとはあの事です。

『このまま黙っていればSさんに気づかれないまま10万円をネコババできるぞ』という悪い心が出てきてしまったのです。

と同時に『いつも良くしてくれているSさんを裏切るつもりか!』と良い心も出てきて私の心は当たりくじを握りしめたまま揺れ動きます。

その心の動揺を見透かしたようにSさんが言います。


「10万円、当たっていたでしょ」


心臓が飛び出るほど驚きましたが、今思えばSさんはあらかじめ10万円が当たっていることを知った上で私に宝くじが当たった感動を味あわせてくれるためにワザとそうしたのだと思います。

ところが私がまさかの悪い心を出してしまったのでそれを察知したSさんは私が嘘をつく前に手を差し伸べてくれたのだと思います。

しかもお裾分けとして3万円もいただくのですから一瞬でもそのような事を考えた自分が情けなくてしょうがありませんでした。


人生であんなに恥ずかしい思いをしたのは後にも先にもそのときだけですが、おかげ様でその日以来『誰にも見られていない時こそが一番見られている』という不思議な感覚を意識出来るようになるのでした。


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