009ー会釈

大分には大野川という一級河川があり、大野川のスズキ釣りに凝っていた時期があります。大野川にはスズキが多く生息していて、巨大な物になると1メートルを超えるものもいます。ちなみに現時点での大野川での最高記録は108センチだそうです。
若い頃にはルアーで狙ったりしていたこともあるのですが、やはり昔ながらのブッコミ釣りが一番自分に合っていると言うことに気付いてからは、最良のスズキのポイントを見つけることに専念しました。
大野川の大在側の河口は有料の橋の下から川が海に交わる所まで全てがスズキ釣りのポイントになるのですが、海寄りの3分の1は背の高い草に覆われている為、余り釣り人は入りません。
 
 あるとき、干潮の日に海側からなら川の淵沿いに歩いてその草むらのポイントに行けることが解かってからは、しばらくそこに通いました。結構良いポイントがあるのです。ただし、次の干潮を待たなければ戻れませんから、十二時間はそこで粘るしかないのですが、私にしてみれば何の問題もありません。その日も昼の2時に釣り場に入りボツボツと始めるのですが、ゆるやかな入り江になった河岸は3畳分ほどの拓けたスペースがあり、釣りをするのには何の問題もありませんでした。ただ、その先は鬱そうとした草むらが広がっていて、日のある間は良いのですが、暗くなるとあまり気持ちのいいものではありませんでした。夜の釣りはどこでもそんな感じなのですが、後方からの圧迫感だけは独特でした。

 まずまずの成果を挙げ、夜中の1時を回った頃に風も出てきたこともあって片付けの準備を考え始めていた時です。
「すみませんが…」突然耳元で声がしたのです。私は驚いて川の方に尻餅をついてしまったのですが、声の主は草むらを背に突っ立ったままでした。月明かりの中で確認すると、黒のズボンに白の長袖のシャツを着た黒ぶちメガネをかけた大学生くらいの若い男性でした。事情を聞いてみると、青年は入り江の上流で釣りをしているらしく、タバコが切れたので私に声をかけたらしいのです。タバコを3本分けてあげるとすぐに草むらの中に分け入ってしまったのですが、私は十二時間もそこに居て、近くに釣り人が居るなどとは思ってもみませんでした。彼が近付いて来たのも解からなかったのです。その後、入り江の向こう側に注意を払ってみたのですがそこに人がいる様な気配は感じられませんでした。

嫌な感じがしたので、早々に道具を片付け、まだ完全に引ききっていない川の淵を引き返しました。途中に見上げる位の大きな岩があるのですが、その岩の前を通り過ぎる時、何気なく岩の上を見た私はもう一度尻餅をつく所でした。
何と、さっきの青年が岩のてっぺんで膝を抱えて座っていたのです。私は見てみない振りをして通り過ぎましたが、その青年が私に向かって会釈をしたのは視界に入りました。

私は今でもそれが霊だったとは思っていません。なぜなら彼は美味しそうにタバコをふかしていたのですから。


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