322−ガラガラ
若い頃は暇さえあれば釣りに出かけていました。
釣りをする人にはわかると思いますが、自分だけの秘密のポイントというのが必ずあるものです。
その釣り場は自分にとって聖地のようなものですから釣れても釣れなくてもそれなりに納得出来てしまうのです。
ある夏の日のこと、夕方から新しい釣り場に出かけてはみたものの夜の9時を回ってもさっぱり釣れないのでいつもの秘密のポイントに移動し、良い感じでその日の釣りを締めくくろうと釣りを始めるのですが、しばらくするとどこかで『ガラッガラガラ』と何かを引きずるような音が聞こえるのです。
辺りに釣りをしているような人の気配はありませんからおそらく空耳だろうと思っていたのですが、しばらくするとやはりどこかでガラガラという音が聞こえます。
しかもさっきよりも音が近くで聞こえたものですから反射的に音の方にライトを向けてしまいました。
その防波堤は私が釣りをしている場所から50メートルほどで終わっているのですが、その途中30メートル位の所に何かがあるのです。
それを『物』だと思ったのはその形状からですが、よくよく見るとそれは病院でよく見かける点滴をしながら移動できる器具を引っ張りながら釣りをする人でした。
最初に確認した時には誰もいないと思っていたものですからとても驚いたのですが、それが釣り人ならあまりライトで照らし続けるのも失礼だと思い、気にはしつつも自分の釣りに専念します。
その内にガラガラという音とともにかなり近くまで近づいて来た釣り人の海にあるはずのウキが見当たらないのを不思議に思い、失礼だとは思いましたがもう一度ライトを向けてゾッとしました。
15メートル位まで近づいたパジャマ姿の男性は裸足で、クーラーもライトも持たず、短い釣り竿を右手に持ったまま左腕にはシッカリと点滴のチュウブを繋いだままで足下の夜の海をジッと覗き込んでいるのです。
金属の器具にぶら下がった点滴の黄色い液体の入った袋の歪んだ部分がライトの光を反射して怪しいライトグリーンに輝いたのを合図に急いで道具を片づけ逃げるようにその場から離れるのですが、たとえそれが近くの病院を抜け出してまで釣りを楽しむ入院患者さんだったとしても私には「釣れますか?」と声をかける勇気はありませんでした。
コオロギのアトリエhttp://korogi.s1.bindsite.jp/