290−透明人間

東京時代のバイトで一番お世話になったのが『窓拭き』でした。

一度は窓拭きのバイトから足を洗い新宿の画材店でバイトをしていたのですが、半年も経たな
い内に前の窓拭きの会社の社長が私をスカウトに来たものですから結局3年くらいは窓拭きを
していた計算になります。

どうも私は窓拭き業界では10年に1人出るか出ないかの逸材だったらしく、後半の何ヶ月か
は正社員として働いていたように思います。

システムとしては前日に告げられた作業現場の作業が終わり次第、電話で中野にある事務所に
報告して翌日の現場を確認するという流れなのですが、気が向いた時などには直接事務所に寄
ることもありました。


マンションの一室を事務所として使っていたのが原因ではありませんが事務員ともフランクな
感覚で接していて、その日も現場が早く終わったので美味しいお茶菓子にでもありつこうとい
う浅ましい魂胆で事務所に寄ります。

普通に部屋に入っても面白くないと思い、たまたま鍵のかかっていなかったドアの『ピンポ
ン』を鳴らさずに息を殺して部屋に入り事務所のソファーに黙って腰掛けていました。


その日は少し早い時間でしたので事務所には30代前半の上品な女性の事務員が1人だけで、
しかも電話の最中で私には全く気づかなかったのです。

3メートル程離れた彼女が電話を切ってこちらに向き直ったときにビックリさせてやろうと
ワクワクして待ち構えていたのですが、チョッと様子が違ってきました。

電話の内容がシビアなのです。


どうも適切ではない男性と適切ではない内容の会話をしているようなのです。

その内容がかなり過激になってきたときに突然彼女が私の方に向き直ります。

万事休すな状況を私は笑顔だけで乗り切ろうと最高の笑顔を作って見せるのですが、不思議な
ことに彼女の視線は私の顔面をすり抜けて私の後ろの壁にかかった絵に焦点が合っているでは
ありませんか。

そして何の反応もないまま意味深な笑いと共に向こう側に向き直ったのです。


しばらく意味がわかりませんでしたが何故か私の存在に気がついていないようなのでそのまま
そっと部屋の外に出て、しばらくしてから『ピンポン』を鳴らしました。

彼女は何事もなかったように普通に対応してくれましたがそれはある意味演技ではありません
でしたがある意味演技でした。

2種類の事柄に対してショックを受けた私は彼女の出してくれたマスクメロンをスプーンで掬
い取りながら、『これから部屋に入るときには必ず『ピンポン』を鳴らすようにしよう』と
心に誓ったのでした。


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